KRC OB Cue 1992 第1章

第1章 昭和29年~30年卒業生

コールサインK.R.C.<北高ラジオクラブ>は生まれて3年、3年前うぶ声を上げてから、かなり活動したつもりだ。文化部中のチャンピオン放送部はN.H.K.の研究指定校となっているのだ。ところで、今年度を振り返って見よと云われると、何をやったか、何様放送には金がなくては……今年は部員の望んでいた部室も出来たし、今年は放送劇などもやろうと云うことで、録音効果盤なども買い入れ、堂目先生を部長にいただいて活動を始めた。目的は部員一同美しい言葉づかいをである。実際話し言葉の美しい人、発音の正確な人と話す程、楽しく話せることはない。熱心にそんなことを身につけようと、思う方はいつでも入部して下さい。

もう一つはなるべくシヨウの回数を増やすことである。これは9月に生徒会の共催で、クイズシヨウを一度やっただけで経費欠乏から中止している。

放送劇をやろうと云う望は、ラジオ南海の開局記念に菊池寛原作の「屋上の狂人」を放送したことだ。9月の中旬から練習を開始、丁度国体の前で練習の時間を充分に取ることができなかったが、放送することはできた。結果はおききの方もあるかと思いますが、あまりスバラシイものとはならなかった。

しかしこの事があってから部員の研究熱は高まったことは放送部の発展に大きな意味がある。今年度も終ろうとしているが、来年度のKRCの発展に御期待を。


今年度を回顧してみると、文化部活動としては、実に多彩であったと思う。昨年の5月に、南海放送とNHKを見学してから、部員間の研究熱は高まった。NHKを見学した際、本校卒業生の某アナウンサーに会うことが出来、それ以来指導を受ける事が出来たのは、私達部員にとって大きな収穫と云わねばなるまい。

活動の方面は、ここに書くまでもなく、皆さんに認められても良いはずである。

しかし、こうした活動も、決して楽なものではなく特に施設の面で他校と比べる時、いつもその貧弱さに、嘆かずにはいられないまである。

第1に、本校には、録音機などと云う気の利いたものはなく、いまだに、自分の声をしらない部員がかなり居る事だ。録音機があれば語学教育にもおおいに役立つだろうし、その他演劇、記録、弁論等、使用範囲は実に大きいのである。市内の学校でテープレコーダーを所有していない学校は、おそらく本校位のものであろう。来年は是非欲しいものである。

第2は、放送機そのものが出力が少ないため、我々の苦心する所である。しかし、部員一同この不利な条件をよく克服していったと思う。文化部中の活動は、校内の活動が主で割に目立たないのだか我々放送部は校内の活動はもちろん、校外まで進出している。校外の活動は、JOAFの学園スタジオの時間である。これまでに2回放送した。その第1回は、昨年10月9日(土)”ナマズが坊主に化けた話”第2回は、今年1月15日(土)”高校生”の2本である。出来具合は、皆さんが聞かれた通りである。機会があれば、まだまだやる方針である。尚、これらの脚本は、これまで、部員の作品であったが、他に一般からも募集致したい。いつでも放送部室まで出して頂きたい。

これまでの他、部は放送聴取調査カードなるものをもうけ、一部ではあるが、皆さんの声を聞き得た事は、部にとって大きな収穫であった。レコードの希望は、種々様々で、クラシック・ジャズ等あらゆる方面のものがあるけれども、部が所有しているものは、御希望のごくわずかしか満たす事が出来ないのは、我々にとっても、実に残念な事である。残念な事はもう一つある。それは、昨年10月24日の開校記念祭の時のクイズシヨウの録音である。せっかく録音したものを、期限つきで録音機を借りていたため、結局放送しないで終わった事は、今年度の一番残念な事であった。今まで、残念な事ばかりであったが、一つ明るい話題を御紹介しよう。昨年5月、NHKから感謝状をもらっている事は、皆さん御存知ないかも知れないが、これから見ても、我々放送部の活発な事が、わかっていただけると思う。

※原文のまま掲載しています。(部員の名前は、苗字のみに修正しています。)

卒業生(50音順・敬称略)

昭和29年(1954年) 家木、鵜久森、二神

昭和30年(1955年) 石岡、市川、浜口

当時の主な出来事

昭和26年(1951年) 第1回紅白歌合戦放送

昭和28年(1953年) ラジオ南海開局(現在の南海放送)

昭和30年(1955年) テレビ放送開始