KRC OB Cue 1992 第3章

第3章 昭和35年~38年卒業生

北高放送部創設8周年を迎えた我々は、過去7年間堅実に築いて来た、確かな土台の上に立ち、新入部員を迎え、共に苦しみ、悲しみ、楽しみ、総ての感じを味わってきた今年の我が放送部を、オペレーションの面から回顧してみよう。

新学期第1日目より開始された校内放送も、週間スケジュールに従って、例年にない順調さを示してきた。 そのうち新番組として今年より試みられたものの中に”先生訪問””私たちの主張等があり、この番組に対して、「意欲的だが、手堅すぎる。」と言う皆様の痛裂な批判を受け、新番組として模索と実験の時期である初期の編集が慎重過ぎがちであった事など、部員一同考えさせられました。 それだけに内部では、毎日の様に、自作のアクセント練習用テキストを手に、レコーダーを相手に、少しでも聞き良い、明瞭な発音でと懸命な努力が繰り返えされた。 指導には先輩が直接あたって下さったお陰で、新入部員も1学期の養成期間を経て、最初と比べれば非常に美しい発音と化して来た。 一方技術の方では、少しでも聞きやすい放送をと、音質音量について研究が継続されて来た。

5月25日に行われた第1回高校総合体育大会にも、技術陣、テープレコーダーをひっさげ、雨の中を会場にかけつけ入場式を収録した。

8月6日、第8回全日本ハンドボール大会には、広島、仙台各高校選手のインタヴューと2学期には水泳大会、運動会、初の試みとしてのレコードコンサート、開校記念祭等技術陣にとって、忙しい行事に追われ、3学期には予餞会と機械整備に多忙を極めたのである。 又校外活動は、例年以上に多彩であったと思う。

我々の良い発表機関として、松山高校放送連盟(会長 北高放送部2年生、赤星君)がある。 本部をラジオ南海におき、週に15分間”生徒手帳”の時間を設け、連盟加入校協同出演の機会がそれである。 まず5月1日「進学とクラブ活動」というテーマでの座談会が放送された。 出席者はいずれも本校放送部3年生、西脇さん、二神さん、村上君、田中君以上4名である。 これは本校だけの出演だったが、進学とクラブ活動の両立問題について、活発な意見が交わされ好評が持たれた。 続いて大塚和明作「暗い青春」を発表、2学期に入って録音構成「大空に活躍するアマチュア無線」と北高放送部出演のみ載げて見た。 この他、他校との共同出演として1月8日に「誰かが私を」等例年に上廻る出演ぶりを見せた。

その他校外指導として6月23日南海放送編成部長のラジオ番組の出来るまで”について講習会が社会事業会館で開かれ、北高からは、2年生小原さん他部員多数が参加した。 8月7日より3日間夏期講習会として、ラジオ南海に於て技術、アナウンスの指導が行われ、大きな成果を収めた。 こうした校外からの刺激を受け、2学期早々北高放送企画委員会が成立、放送番組及び内容の再検討が行われ、より充実した放送内容にと努力が続けられて来たが、実現を見なかった事は実に遺憾な事であった。 こうした意欲に燃えた放送部の今後の発展を念願してやまない。


開校10周年の歴史を持つ松山北高校の中であって、わが”KRC”北高放送部は9年の古き伝統を持ち続けているのです。

この1年間、部活動を振り返ってみます時、我々の部は第1学期の第1日目から活動を開始、毎週、月曜日から金曜日までの5日間各部、各先生のインタビュをはじめ、有名書の朗読、昼の時間を楽しく通していただくためのポピュラー音楽など、多彩な番組を放送してきました。 そして、毎週、土曜日には部員による批評会を行って、日夜良い番組するための努力を続けたのです。 その批評会も生徒諸君の批評のない批評会だったことを大変残念に思う次第である。 我々の部は全校の皆さんに対するサービス活動を続ける一方ほんとうの部活動なるものをも続けてきました。 それは、アクセント練習であり、放送機械、無線機械の修理、研究なのです。 ただアクセント練習は、本を見ての練習だけでは上達出来ないのが欠点で、今年は良きリーダーに恵まれなかったことが残念であった。 しかし技術関係では、2年生が1人、アマチュア無線局を開局、その意気たるや目ざましいものがあった。 又、部活動の中でも、今年はじめて試みられた松山高校放送連盟を通じて、市内の各学校間で放送テープの交換を行ったことは、我々の活動の程度を知るうえにも、他校の放送水準を見る上においても、有意義なことであったと思う。

それと共に、我々の活動が他校以上の水準にあるのもわかり、なお一層努力せねばならぬことも自覚した。

2学期に入って活動はますます活発となり、開校記念祭を迎えるにあたって、その頂点に至ったのである。 すなわち、記念祭行事の中で我が放送部の行った「放送展」なるものは「百聞は一見にしかず」のことわざのごとく、他の文化部とは全く異った部活動を確実に示したものであり、出品された特殊測定器、テレビ等を除く総ての通信機械類は、部員によって研究、製作されたものばかりであった。 その中でも、アマチュア無線の公開移動実験は、我が北高を電波によって全国に紹介し、皆さんに電波の威力を知っていただけただけでも、誠に有益であったと思っている。 その他、バザーや生花の会場と物理教室とを結んだインターホンの実験、人間の音声を波形で見る波形実験、それに、電波の花形、テレビによる早慶戦の中継等、数々の実験を行っての特異性を公開した。

続いて行われた運動会には、技術部が徹夜で準備した放送設備により、スムースに番組が進んだ。 これも、スムースに行ったがため「縁の下の力もち」的存在であった。

この様に、今年は技術的活動の方面において著しい発展をとげましたが、3学期になって、丸善石油がスポンサーで行った全国高校放送作品コンクールに出品、松山市の発展を録音構成で紹介した。 これは、全国的レベルへの挑戦であり、我が部の実力を知る上に絶好の機会でもあったわけである。

特殊な部である我が放送部において、この様な今年の活動は例年にも増して誠に活発なものであった。


 創設10周年を迎えた今年の活動は全般的には低調であったが、放送施設は充実して使いやすくなった。今年は今後の発展への地固めの年であったといえると思う。

この1年間の部活動を振り返ってみると、その一端である校内放送は第1学期に入って間もないころから開始した。 そして毎週月曜日から金曜日まで種々の番組を放送し続けたが、放送機が貧弱で聞きにくかった。 そこで我々は新しい放送機の製作を計画し、予算面でも各文化部の御協力を得て、1学期の本試験が終わってから回路を決定し、部品を集めた。 こうして配線し終って、スイッチを入れたのは夏休みに入る頃であった。 すごいハムと雑音に悩まされ、一時は暑さのために放り出したくなった時もあったが、苦闘のすえ2学期に入ってやっと完成をみるに至った。

2学期になってからは校内放送も2年生を中心として軌道に乗り順調であった。 運動会も部員一同の協力により放送関係は大過なく終った。 新しい機械の威力を公開する場でもあったのである。

ただ、この頃演劇部と共同で一般からの参加も得て「全国高校放送作品コンクール」に出品の予定で練習していた放送劇が、学校側の干渉によって中止のやむなきに至ったのは非常に残念なことであった。 学校側にもそれなりの理由があったこととは思うが、内容の問題であっただけに、練習を開始した時に注意してくれていたら改作も可能であっただろうにと思われ今もって残念である。

従って今年は校外的な活動は全く無かった。

番組については、今のところ堅い「文学の時間」などより気軽な音楽番組が人気があるようである。 それに合わせて音楽番組を多くしているが、これは部活動本来の意味からすれば好ましいことではない。 一方アナウンス部では放送劇を録音し研究している。 いずれ発表の機会もあるだろうと思うが、大きい進歩が期待される。

我国でも電波法が改正されアマチュア無線家が増加しつつあるが我が放送部の先輩部員あわせて5人が(新に3人始めた)局を開設し、その数はますます増加せんとしている。 「友は類をもって集まる」とか、関心のある方は入部されるとよい。

念願の部室移転は実現しなかったが、来年こそは実現させてほしい。また放送部では伝統的にホームメイド(自作)主義であるが、これは今後も続けてほしい。 放送部員がハンダごてを持たなくなる時は即ち、放送部が活動を停止する時であろうと思う。

放送部の発展を念願してやまない。


第2教棟の東階段の下こそが我々の根城である。 階段を人が往来すれば砂の洗礼を受け夏には暖房が利き冬には隙間風の訪問を受ける2坪半の狭い部屋であるが同じ目的で結ばれた仲間が集まり自分の持っている希望を話し会い批判し会い笑い会えばそこはもうエアーコンディショナーの装備された百万弗のスタジオやミキシングルームである。

全校生徒が授業の緊張を解きほぐし減った腹を満たしている時我々は百万弗のスタジオでミキシングルームですき腹をかかえながらも目をかがやかしてマイクにアンプに取り組んでいる。 教室で舟を漕いでいた部員でさえも部屋の扉を開れば水を得た魚も同じにわかに生気がよみがえりゼンソクぎみのテレコやチュウブのアンプをまるで自分の身体の一部であるかの様にあやつる。 そんな時の我々は弁当の事も赤点の事も先生の顔もみんな忘れ放送の完全な虜になつてしまっている。 何がそんなに我々を夢中にさせるのかわかりもしない。 又考えた事もない。ただそこには何かに打ち込もうとする若人の情熱のみがある。

予餞会の前日何度も何度も何度も放送機器のテストをして遅くなり暗い校門をくぐつて星のまたたいている空を見上げる仲間の顔は翌日の成功を信じて明るい、そして足取りも軽く家路につく。 しかし当日この期待は我々に対する非難の声で無慙に破られる。 遅くまで残ってテストした我々への報酬としてはあまりにもみじめである。 それでも我々は唇をかんでがまんし次回の成功のために反省し研究する。

「君達は馬鹿だみんなにぼろくそに言われてまでそんなに続けてやれるな」と言う人がある。 しかし我々は笑つてこう答える。 「君達こそかわいそうに本当の喜こびを得る事が出来んとは」。 我々の活動はたしかにぶにあわない。 はなやかな舞台の裏で縁の下の力持ち的働きをなしかなり重要な位置をしめながらも軽視される。 マイクの調子が悪ければどなられる又それらの準備をするのも非常に苦労する。 しかしそれらが大きければ大きい程、うまくいつて「ご苦労さん」と声をかけられた時の喜こびは今までの苦労を忘れさせ、次へのフアイトとなって燃え上る。 そのフアイトは放送へだけではなくありとあらゆる方面に働きかける。 我々はそれを求めているのだ。

熱心に聞いている人は非常に少数だという事がわかつていても我々は昼の放送をする。 それは少数でも我々の団結から生れる情熱をくみ取つてくれる人があるから、しかし我々はこれで満足してるのではない進歩しようとしている。 又進歩している。そのスピードはかたつむりのそれより劣るかもしれない。 しかしそれでも我々は進歩している。 果たして未来に向かって我々の共通の目的に向かって・・・。 KRC

※原文のまま掲載しています。(部員の名前は、苗字のみに修正しています。)

卒業生(50音順・敬称略)

昭和36年(1961年) 宮地

昭和37年(1962年) 岡本、堀川、渡部

昭和38年(1963年) 稲山、木多、河野、正岡、田中、本田、山崎、矢野

当時の主な出来事

昭和35年(1960年) テレビのカラー本放送開始

昭和37年(1962年) 東京の人口が1000万人を突破