KRC OB Cue 1992 第4章

第4章 昭和39年~42年卒業生

空気ほど貴重で、それでいて軽視されるものはない。

この英作文の問題を考えていた私は、解答するより先に、いつの間にかこの3枚の原稿用紙のます目を、頭にちらつかせていた。 影の力ともいうべき、私達放送部の存在を、いかにして、みんなに認めてもらおうか、と、思案にくれていた時だったので、しかめっつらをして、英語の問題に取りくんでいたことが、私には、めずらしく幸運だったのである。 というのは、このやっかいな、英作文の間題が、北斗原稿の糸口となったからだ。

放送部というものは、空気ほど貴重ではないし、空気ほど軽視されはしない。 しかし、すくなくとも、これに似たものであるといえよう。 部員の一人一人が、プロデューサー、ミクサー、アナウンサーと、立派な名をもらい、それぞれ与えられた仕事に、一生懸命、ぶつかって行く。 ”みなさん、今日は。”に始まる短い挨拶の言葉作製にも、30分も費し、レコード1ッかけるにも、ピックアップにふれる手に万全の注意を払う。 10分足らずの短い間、全神経を集中させ、頬を硬直させ、目を光らせて、たった1ッのミスも出さないよう、苦心して1個のささやかな番組を作製する。 そうして、その番組を、一体、何人の生徒が聞いていようか?。 いつだって、心ない人達によって、美しい音楽は無視され、語られる言葉は、大きな笑い声で、かき消されてしまうのである。 その幾人かを、まのあたりに見ながら、しんの強い私は、悲しみもせず、”何くそ!!”と、反対に、闘志を燃やしたのもであった。 また、少しでも聞きやすく、少しでも立派にと、望みをかけて、部室、いわゆる、スタジオの改善、防音装置設置の仕事に、春休 みまでを返上して、いそしんだ、あの苦心を、努力を、知っている人があるだろうか……。

そればかりか、運動会、水泳大会、予餞会と、汗を流して頑張った報酬は、以外と冷たい反応がほとんどである。 いつだったか、厳粛な式の時、アナウンスを担当したことがあった。急な依頼で、即席アナウンスだったため、注意が十分行き届いていなかったのか、あとからずい分叱られたのである。 私は”一生懸命やったのに……。”と、哀しくとも泣くにも泣けず、友人にその辛さをうったえることすら出来ず、家に帰って、一人で泣いたことがあった。

このように、放送部というものは、叱られこそすれ、賞められることは、まあないといっていいであろう。 成功した時は、内部で喜び合い、失敗した時は、内部で励まし合うのである。 それ故、部の内部はどこの部よりも、親睦が計れ、お互いが見つめられその意義は深い。 部員は皆んな、放送の仕事を、とても愛している。そうして、まだ学生である私達が、愛情の対象物を、放送の仕事の中に見い出したことが、非常に賢明であったと、考えている。 私も、その賢明(?)な1人のつもりでいるのであるが、人間同志の愛情がそうであるように、これらの愛も非常に厳しいものであった。 好きなことをやるのだから、楽しいことは確かだ。しかし、苦しみも同じ程大きい。いやという程、苦しいことがたび重なって、退部を決意したいつかも、夜な夜な、テープレコーダーの声に責められ、他の、アナウンス担当の人達の美しい声にも悩まされ、とうとう、退部出来ないまま、放送のとりこにされてしまっていたのである。 しばらくの間、マイクに向っていなかった私には、放送の仕事に帰った時、あの、小ちゃな部屋が、雄大なオアシスとさえ思われた。

叱られても罵られても、苦しくとも、悲しくとも、この仕事を愛し、大切にすればこそ、すべて耐え得ることなのである。明日がある、次の仕事がある、そう思い、ファイトをもやすことによって、みんなは、憂いを、払いのけている。

今、ここで、放送を取り除いてしまえばどうであろう……。

私達の学校生活において、放送部の果す役割は大きい。 しかし、部員以外、誰もそれを知らない。 影の力となって、かしづき、私達を道徳家ならしめるこの部には、たまらない魅力がある。 世の素晴しき恋人達が、それぞれに魅力があるように……。 いや、それらよりも、もっと素晴らしいものかも……。


ある日。

あの赤く輝く太陽は、いつしか静かな眠りに誘う月に、星にと変ってしまっている。 生徒は、いない。 居るのは先生と犬と虫と…。しかし、時々と輝いている所が、まだある。

それは、敷地わずか4坪、人が通ると、ゴトゴト、ガタガタと足の音、その音と共に、砂の襲来まで受けるすばらしき天井。 カレンダー、掲示板、棚が、心安らぐグリーンの色の壁を、美しく見せている。 その中には、夏休み、春休み、日曜と貴重な時間を、さき、ある者は、板をけずり、寸法を計り、ある者は、ガラスを切り、吸音板をはりつけ、クギで一つ一つ、コツコツと組み立てていった。 流れ出る汗と、若いエネルギーの結晶である防音付?アナウンスルーム、NHKにも、ひけをとらない?ミクシングルーム。 それらは、他人の物ではない。自分の体の一部分である!

10分間の録音テープを作る時はどうであろう。

赤く硬直した顔。 高く、大きく波を打ちつづける心臓。 1秒の心のゆるみもゆるせない。 ピックアップを握る手は、振えてはならない。 しかし、振えるのだ。 しかも、微妙に……。

Qシートを見て、”次は、ボリウムを上げるのだな”でも、不思議に握っている手は、うまく廻らない。 ミクシングアンプは、自分の体ではなかったか!それなら、思い通りに動くはずなのに……。 その一瞬の間は、勉強の事、空腹の事、試験の事は、頭の隅に押しやられている。 アナウンサーの顔、ミクサーの顔、それは、無我夢中だ。 こんなにまで、なぜ、夢中になるのか、こんなにまで、なにが、夢中にさせるのだろう。 ”一つの事に打ちこみたい!”ただ、それだけの気持ちだ。

 又、運動会、予餞会、水泳大会と行事が、大きければ、大きい程楽しい。 なぜなら、準備が、たまらなく、いそがしいからだ。 そして、成功し終わった時のうれしさが、たまらない魅力だからだ。

ある人は言う。”しんどいぎりで損だろう、やめやめ”と。 その人の顔を見て『真の快楽を知らないとは、かわいそうに。』と思う。 ”真の快楽は、他人を満足させること”とある哲学者は言っている。 あすは、実力試験があるといっても、誰一人として早く帰ろうとしない。 彼らの頭の中は、あすの予餞会の事しかないのだ。 もくもくと、手は、足は、頭は動く。 「マイクいいか。」「OK」その時は、もう星が輝き、松山城が夜空にくっきりと浮ぶ中を、すきっ腹をかかえて家路につく。 みんなの顔は、あすの成功を夢みて、明かるい。

部の影での活躍は、先生も、生徒も、誰も知らない。 又、部員はそれを知らそうとはしない。 こうすることが、あたりまえだと考え明日の仕事にとりかかる。 この放送部は、われわれをすばらしい道徳家にならしめる。道徳家に……。

これらは、すべて生きている。 あのタ焼けの様に、この真赤な血は流れつづけることだろう。

それは、ゆっくりと、どこまでも、しかも、力強く……。


私達の若さと”放送”に対する情熱はそんなものの入りこむ余地を残さなかった。 たとえ、その結果がどんなものであろうとも、他から何といわれようとも。 それはすべて自分たちのものであり、自分たちの血の通ったものであるから…。 」

私たちは”放送””アナウンス”という言葉に魅了されて入部した。 ただ「放送してみたい。」「マイクを通してしゃべってみたい。」というそれだけで……。 それだけしか望まなかった私達に、放送部は非常に多くの事を教えています。 放送部という小さな世界での位置を自覚させ、生活を教え、個人を導いてくれた。 そして、自分達自身で考え、学ぶという精神面をも……。

又、放送部はそうした、無尽な精神生活場と同時に、地味ではあるが、力づよい活動の場を与えてくれた。 運動会、クラスマッチの準備に、また、予餞会の準備に夜は8時も9時までもかけずり回った。 真夜中の寒空をマラソン大会の準備をして歩いた。 夏の休みを返上して作ったアナウンス読本、夜を徹し抑えたコンテスト参加作品、部室の拡張、改造、おちかけた壁に壁紙をはり、小さなものにも工夫をこらした。 私達は夢中だった。

悔ない青春とはいったい何か。 情熱的な恋愛か。 一心不乱の勉強か、あるいは天真爛漫若いエネルギーを発散させることか。 そう、たしかにそれらは青春にふさわしい営みである。 しかし、私達はこの一心な情熱を”放送”という一つの目標にかけた。 そして放送部を互いに教えられる協力の場とし、そこに青春を見出し、私たちの青春の3年間を綴った。 又、これからも、私達と同じような人々が、この小さな部屋に育って行くであろう。

悲しい時、苦しい時、音楽は私達をなぐさめ、アナウンスルームは心の安らぎを与えてくれた。 マイクに向かう時、原稿を持つ手はふるえ、心臓は脈打つ。 ピックアップを握る手も、Qシートをにらむ目にも”放送”ということの他には、何一つ入る余地はない。 全身で放送に体当りしたのである。

放送の持つ素晴らしい響きは、北高校のなくなるまで消えないであろう。 いや、もしなくなったとしても、この放送部を巣立ったすべての人々の心に、楽しく、幸福で、時には苦しかった青春の美しい思い出として、一種独特な光彩につつまれながら、未来永劫私達の胸に生きつづけるであろう。 その伝統を、良き後輩の叡智と力に信頼して……。


今から12年前その第一声をあげた 「我ら北高放送部。」

階段の下、砂のおちる小さな部室の 「我ら北高放送部。」

うまくいって普通。 アンプの故障でも起ると、皆からは、やじが飛び、先生からはどなられる、そんなクラブ、放送部。 でも、ぼくたちは、毎日結構楽しかったし、放送部室に行くために、毎日学校へも通った。

運動会の時、予餞会の時、ぼくたちは、試験のこと、明日の予習のこと、空腹のことも忘れて勢一杯の準備をした。 ある者は、生徒会の人と打ち合せをし、ある者は、どこに居るかわからない先生をつかまえようと捜しまわり、またある者は、行進曲のレコードを選び、またある者は、ハンダゴテを焼いてコードを整備している。 だれ一人として、安閑としている者はいない、本番の前日の部員の顔は、一見異様で、近づくと、かみつかれそうな雰囲気である、しかし本番で、何の事故もなく成功した時、ぼくたちの心の底からわき出る満足感は、一心不乱に活動した者だけに与えられる、何とも言い固い喜びだった。

また、コンテストの5分間番組を作る時、1ヵ月もその上も前から、みんなで相談した、主題を決め、それにそった内容を考え、大筋が決まると、Qシートを書き、準備開始だ。 準備中何と言ってもインタビューと、そのほかのアナウンスルーム外での録音が大変だ。 夏休み中、せみの声を録音するため、何時間も、学校のくすの木の上で待ったことをおぼえている。 10人の声を録音しても、その中でほんとうにぼくたちの、必要なものだけを取り出すと、30秒程になってしまう、もっとも、それほど短かくしなければ、5分のわくには入らないのだ。 やっとのことで、内容の録音を終り、いよいよ構成に入る。 これは、2、3人でやったが、テレコからの音とアナウンスの声とレコードを、アンプを通して、1本のテープにまとめ上げるのだ、しかも、5分以内に。 アナウンスルームも、ミクシングルームも、はりつめた空気でいっぱいになる。 音楽が流れ、アナウンサーにQが出る……。 しばらくすると、部屋が熱気でいっぱいになる。 夏だと、まるで、むしぶろだ。 しかし、だれも、そのむしぶろから、にげ出そうとする者はいない、みんな一生懸命だ。 一人でもスタートのタイミングがくるうと、もうダメだ。

1ヵ所でもミスがあると始めからやりなおしだ。 しかし、『制作は松山北高放送部でした』というアナウンスが終ると、ほっとして、何とも言えないうれしい気がする。 数十人の部員が長い間かけて作ったものが、たった5分間のものに収まっている、その出来上がりは、あまりにも小さすぎるかもしれない、しかしそれだけに、ぼくたちの快さは、とても大きいのだ。

ぼくたちに「他人を満足させる真の快び」「創造の喜び」とを満たしてくれた「我ら北高放送部。」

※原文のまま掲載しています。(部員の名前は、苗字のみに修正しています。)

卒業生(50音順・敬称略)

昭和39年(1964年) 今井、小林、坂本、佐々木、伴、松原、三好、西山、藤井

昭和40年(1965年) 魚住、鵜久森、越智、曽我、坪田、中村、西川、前田、松原

昭和41年(1966年) 飯塚、小笠原、菊池、菊池、重松、高井、谷口、辻田、藤田、松原、向井、村上、吉沢、吉田、脇長

昭和42年(1967年) 荒川、伊藤、岡崎、小野、客野、久保、柴野、中原、中村、中村、布袋

当時の主な出来事

昭和39年(1964年) 東京オリンピック・東海道新幹線開業

昭和41年(1966年) 日本の人口が1億人を突破