KRC OB Cue 1992 第6章

第6章 昭和47年~50年卒業生

部員の一致協力

「ア・エイ・ウ・エ・オアオ」部室があまりにも小さすぎるので練習場に、と使わせていただいている物理教室の窓ガラスが「バリバリ」と響くくらいの大声。 声の主は、放送部のアナウンサーとミキサー達。 この発声練習と相まって、「テープの継ぎ方」という基礎練習に放送部の活動は始まります。

ここで、放送部の活動状況の一面をお知らせしましょう。 毎日のお昼の放送と並行して、まだ記憶も新しい文化祭や運動会。 今年の文化祭と運動会は10月1日、3日と続いて行なわれたため、私達は駆け回りどおしでした。 例の階段の下の小さな部屋は、この大きな行事が済んだ後は、運動会用のレコードや、失敗原稿の紙屑などで、見るのさえいやなくらい散らかされていました。 ただ文化祭用に借りていたレコードが、無事に保管されていたのが、せめてもの「慰め」でした。 でも、忙しかった事も今思うと良い思い出となっています。 そして6月に行なわれた放送部の力の水準を知る秤ともなる、放送コンテストでは惜いところで県大会止まりとなってしまいました。 部員一同、この時ばかりは心で涙し、「来年こそは頑張るぞ。」と今、若いエネルギーを、お昼の番組作りに傾けています。

「キンコンカン…。」お弁当の合図のチャイムの音と同時に起こる、なごやかな雰囲気の中に、あなたの「きょうのお昼の放送まだかしら?あのテーマソングすてき。」という声を聞くのを楽しみにして、私達は「いい番組を作る。」を放送部の合い言葉に、毎日マイク片手に駆け回っているのです。


天に近い所のアナウンス

北高で最も天に近い所にある放送部。

気違い連中クラブとか北高ろくでなしクラブとかさまざまに言われているKRC。 構成員は2年生7名、1年生8名の総勢15名。 さまざまの個性をもった人間が、狭い室に閉じこめられている。

毎日昼休みに流れている放送。音楽あり、おしゃべりあり、放送劇あり。 このわずか10分たらずの番組のために多くの時間が浪費されている。

放送の総決算ともいうべき6月のコンテストには、7分番組のために何ヵ月もかけて、検討、構成、録音などが行なわれる。

よりよき番組を、楽しい番組をつくろうと心がけてはいますが、できた番組はけっして満足できるものばかりではありません。

番組中のアナウンスも簡単にできるわけではありません。 毎日、基本練習から始まってアナ練を1時間ぐらいやっているのです。 アナウンスには普通の話し言葉とは違った独自のアクセントがあります。 言葉の一つ一つに神経を配ってアナカンスしているわけです。

アナウンスだけで番組はできません。 直接には現れてきませんが、もう一つ大切な人、それはミクサーです。

今、一番の悩みは機械の不足です。 残念ながら放送部というのは名目だけで、設備は貧弱そのものであります。 それにスタジオもありません。 それにもう一つ不可解なことは、放送部室から直接放送できないことです。 いちいち職員室まで行ってテープを流すのです。 そのため放送という機能を最大限に発揮できない現状です。

天上に近き我が同志諸君、大いなる発展を!!


放送にかける

「みなさん、こんにちは!」で始まって、「K・R・C」で終わるお昼の放送。 たった10分たらずの番組だけど、これを作るのに1時間も2時間もかけるのですよ。 それに毎日毎日、何か少しでも興味をもってもらえるようにと、(もちろん、みなさんに)私達は無い知恵をしぼって話題をさがします。 でも、私、とっても寂しいんです。 どうして、ですって? それは、あなた、そう、あなたが悪いんですよ。 汗水流して?作った番組、ちっとも聞いてくれないんですもの。 録音する時のアナウンサーの気持ち…。 これは筆舌につくしがたいほどのものです。 1年生のころ、初めてマイクの前にすわった時は、マラソンした後のように胸がドキドキして、声が上ずってしまいました。 それほど緊張するのです。 こんなに一生懸命作った番組なんです。 聞いて下さい。 そして、気づいた点があったら何でも言って下さい。 批判でもいいんです。 それが励みになるんです。

私達の一番大きな目標は、やはり全国放送コンテストで優秀な成績をおさめることです。 昨年は県1位に選ばれ本当にうれしかったのです。 でも、現実はきびしいものです。 今年は全く奮いませんでした。 来年こそは…。 とはりきっている我がKRC部員ですが、そのためには、番組の内容だけではだめです。 放送技術、これは、ミクサーの腕の見せどころ。 そしてアナウンサーとしては、美しい声、正しいアクセント、感情のこめ方、間の置き方、など多くの事が、要求されます。 これらのことを修得するために、ミクサー、アナウンサーはそれぞれ、毎日の活動を続けます。 ミクサーはミク練、アナウンサーはアナ練に励みます。 アナ練は、まず、おなかから、大きな声をハッキリだすことからはじまります。 そして次に、早く正しく明確に読むこと、続いて、鼻濁音、無声音、を勉強した後、代表的な単語、続いて、短かい一文、そして最後に文章というふうに練習していきます。 時々こんなことを必死にやって何になるのか…?。 なんて真剣に悩んだことがありました。 でも今はこう思うんです。 「私は日本人なんだ。日本人ならまず、日本語をきれいに話せるようでなくては…。」って。 みなさんもそう思うでしょう?

どんな事でもいい。 何か一つのものに青春をかけてみる。 若いエネルギーをぶっつけてみる。 何てすばらしいことかしら。 私たち、放送部員は、放送にかける。 そして私は、完全なアナウンサーをめざして、このエネルギーを、思いっきりぶつけてみる。 それが成し遂げられる日がいつか来るのを信じて…。

放送部は今日も活動しています。そしてあしたも。


K・R・Cの世界

電波がとびかう現在、マスコミニュケーションの主流ラジオ・テレビの役割はひじょうに大きい。 そのほんの一部を受けもっているのが、北高放送部である。

よく、「放送部というところはどんなことをしているの」と聞かれるが、その答えは「ラジオやテレビのように何かを報道し、うったえる」ということである。 そのために我々は番組をつくっています。 その番組には、おもにNHKや民報のラジオ番組のコンテスト用と学校で昼休みに放送する番組の二つがあります。 コンテスト用の番組は、年に2、3回しかつくらないし、発表する機会もないので、毎日の活動として重要なのは、昼の番組となるわけです。 インタビューもやります。 放送劇もやります。 音楽番組、ディスク・ジョッキーなどもあります。

では、ある日の番組ができあがる過程をおってみましょう。

その日のテーマは各部訪問でした。 まず、インタビュー内容を考えます。 「あなたの部のモットーは?」「部活動は楽しいですか?」etc…。 そして、インタータビューに行きます。 そのときはどうやればうまく話してくれるか、話しやすいかということに気を配りながら、日ごろの成果を発揮するのです。 インタビューを無事とり終えると、次はテープの編集です。 うまくはいっているインタビューや、いいことを言っているインタビュー、雑音の少ないインタビューを選び、番組の構成をしていきます。 この構成に時間がかかるのです。 それから、テーマミュージックやその他の効果・演出を考え合わせて、最終録音をやり、やっと番組が完成するのです。

ところが、放送部として、大きな問題があります。 それは聞く側とつくる側とのつながりがないことです。 そのために番組を聞いてくれなかったりするわけです。 プロのラジオにおいては、リクエストがあったり、公開録音があるから、わりあいつくる側と聞く側のつながりがあると思います。 そういうつながりは我々に必要であり、そういうつながりを密にすることによって番組も充実し、聞く方も楽しめるんじゃないかなあ…と思っています。

こんなに番組についてまじめに考えているときというのは一日の部活動のうちの一部分で、ときには冗談や、へたなしゃれを言いあったり、唄を歌ったり、ギターをひいたりしていることもあるのです。 楽しい部です。 K・R・C

※原文のまま掲載しています。(部員の名前は、苗字のみに修正しています。)

卒業生(50音順・敬称略)

昭和47年(1972年) 大原、風本、谷本

昭和48年(1973年) 荒木、石丸、夷子、片岡、川本、樋野、脇本

昭和49年(1974年) 金子、二神、松本、村上、安岡

昭和50年(1975年) 今井、川元、田村、富永、中川、藤原

当時の主な出来事

昭和47年(1972年) 札幌冬季オリンピック

昭和48年(1973年) 第一次オイルショック

昭和50年(1975年) ベトナム戦争終結