KRC OB Cue 1992 第8章

第8章 昭和55年~58年卒業生

最近のKRCの一日をお伝えしましょう。

お昼の時間。1年生部員が前日とったテープをこわきにかかえ、シコシコと職員室の放送室でオン・エァー。 すばらしい先輩の番組を無視しイソイソと弁当を食べている。

いっきに放課後。 まず私(副理事であります)が一番に部室に着くが誰もいない。 間もなく2年生がゴソゴソと集まってくる。 5分程して、1年生のY君がカギを持ってやってくる。 ここから本格的な部活動の始まりとなる。 一応、全員部室にはいる。 しばらく雑談したのち、アナ練を初める。 明日の番組をとり始めた頃、生徒会副会長の越智君がやってくる。 KRCではなじみの顔である。 私と生徒会について多大な議論を戦わすがいつも押され気味である。 突然理事が番組の進行が遅いと叫ぶ。 さすが理事。 新聞部より1年女子がカセットを借りにくる。 T君に重いので持ってやれというと、本当についていった。 T君は男組の住人なのである。 まわりが騒しく番組がとれない…ミキサーの顔がひきつってくる。 にもかかわらずひともめ起し、1年生の女子を泣かせてしまった。 内心あせっていると、ナント、うそ泣きだった。 またまた越智君がやって来た。 部室をみわたし、カバンがないと言って出ていった。 先日、番組をとるのに2時間近くもかかったNアナが、本日は30分で終了。 時刻もちょうど、5時30分。 かくして、KRCの一日は終わる。


放送部の年間行事の紹介

4月。ニューフェース登場。またも6月のコンテストに備えて、部員たちにも活気がもどってくる。

5月。コンテスト1ヶ月前にもかかわらず、話がまとまらない。部員に焦りの顔色。しかし、締切り月当日出来上がり、ぎりぎりセーフ。

6月。NHKコンテスト。惜敗。入選をのがす。

7月。校内のダンスの発表会。放送部ではそのBGMを製作。某先輩は5人も女の子からたのまれた、と嬉しい悲鳴?

8月。北条スポーツセンターで、リーダー研修会開催。しっかり勉強してきたデス。

9月。体育大会。各グループの装飾、各クラスの仮装のBGMを製作。朝の6時から登校する日が続く。たまらなく忙しい。また、男子1名開会式のアナウンスのため特訓。その割に成果なしと批難。

10月。文化祭の準備。催し物を考え出すのに四苦八苦。結局昨年とほぼ同じという事に決定。マンネリズムと批難の声。

11月。文化祭。前日までレコード集めに走り回る。今年は1年生のポスターが先輩から好評。

12月。この時点で放送部の主な行事はストップする。1年生の強化訓練が始まる。

最後に、55総体のアナウンサーとして、山内さん・宮島さんの両名が選ばれました。


昼の校内放送

毎日、昼食時の15分間に、音楽・DJ・インタビュー・ニュースなどの番組を放送。 この番組は放送する前日に録音したもの。 たった15分の番組ではあるが、某アナウンサーはこの録音に1時間30分を費やすという大記録をつくる。

名句その1 15分番組は15分でとろう。

第27回NHK杯全国高校放送コンテスト 出品作品 録音構成「私たちのモラル」 電車通学生のマナーについて考えた番組

6月に行われるために、その制作で5月の祭日・休日はすべて学校へ。 毎年ながら、作品完成は締め切り当日。 その成果があってか、愛媛地区第2位で全国大会進出。惜敗。

55総体

総合開会式のアナウンサーとして、山内さん・宮島さんの両名活躍。 中田・馬越・西森アナも北高サッカー会場でアナウンス。

第18回千代田全国高校放送コンクール 出品作品 ドラマ「さなぎ」

筒井康隆原作「さなぎ」を脚色。 現代社会における親と子のあり方をSF風に問う。 制作時間4時間?ハプニング続出。

名句その2 1分1秒を大切に。

文化祭 (YOUR PROGRAM '80)

恒例フォークコンサート 新作のど自慢大会 生徒にまじって先生も出場、大好評。 新作スライドコンサート 地理部の提供によるスライドに音楽をあわせたもの、好評。 御協力ありがとうございました。 文化祭後、もっと広い場所でという生徒の希望大。 今年は波瀾万丈の年でした。


55総体報告 大役を果たす。 -アナウンスを担当して- 2年 宮島さん

愛媛県を中心に、四国4県で、全国高等学校総合体育大会が開かれることを知ったのは、中学生のころだったと思う。 運動部へ籍をおかない私は、その総体に出られるという希望もなく、運動部の友だちをうらやましく思ったものであった。

あれから数年、私たちは、高校2年生になった。 『一人一役』を合い言葉に、運動のできる人もできない人も、この55総体に全力投球をしたのである。 私は放送部に入っていたので、総合開会式のアナウンサーを希望し、市内各高校より集まった放送部員13人の中から、5名選出された中の一人となることができた。 これより先に、先輩の山内さんがリーダーとして選ばれていたので、たいへん心強く思ったものであった。

大役をうけて約8か月。3月までは月に1、2回、春休みには1泊2日の合宿。 そして4月からはほとんど毎土曜日に、アナウンスの勉強をした。 マイクの使い方、アクセント、文の切り方など、難しいものであった。 特に私は助詞がのびると言われ、直すのに苦労をした。

そしていよいよ8月1日。 前日まで降り続いていた雨もやみ、県総合運動公園で55総体の幕はあけられた。 私たちのアナウンスは、8時25分から始まった。 私の担当は、2時29分から2時34分までの日程説明と、4時44分から4時48分までの帰路の案内と整理であった。 総合開会式の成功は、場内アナウンスにあるといわれるほど大切な仕事である。 日頃あれだけ練習したのだからと思うと、あまりあがりはしなかったように思うのだが、やはり第一声は緊張した。

『四国路を駆けろ若人意気と熱』を、大会スローガンとした55総体。 全国各地から集まった若人たちが、スポーツを通して友情を深め、また、私たちの故郷の良さを、十分わかってもらえたことであろう。 その55総体開会式で大役を果たせたことは、高校時代のすばらしい思い出になると思う。 そして、私のこれからの人生において、何らかの形で役立つことと思っている。


放送部の活動といえば、まず

昼の校内放送

月曜から金曜まで、昼食時に放送部制作の番組を放送。 11月には、リクエストボックス(放送部では、これを目安箱という。)を設けて、内容の充実をはかる。

しかし、放送部の活動はこれだけではない。

六・一四事件 第28回NHK杯全校高校放送コンテスト

番組制作部門では、惜しくも入選をのがすが、アナウンス部門で宮島アナが第1位。 全国大会ではベスト60へ進出。

九・一七事件 体育大会

各グループの装飾テープ、3年生各クラスの仮装テープの制作。 大会前日までり、放送部室は、上を下への大さわぎ。 3年生部員の協力もあり、どうにか当日までにテープは完成。某部員曰く、「はやくおうちへ帰りたいよぉ。」(!?)

十・二三事件 文化祭

テーマ : DOKI DOKI ONE TIME (ドキドキワンタイムと読むらしい。深い意味は不明。) 恒例のフォークコンサート・第2回のど自慢大会・DJ・ゲームなどを交じえた5時間20分の公開放送。 当日は、放送部OGの戒田アナもかけつけてくれた。 というのが、今年1年間の主な出来事である。楽しい1年間だった。


303 宮島さん

こんにちは。みなさんは、木屋町、萱町、本町などという、町の名前の由来を知っていますか。 今日は、私達の学校の近くの町、鉄砲町の名前の由来について、お話ししましょう。

今から、300年以上も昔、寛永12年、松平定行が、桑名、今の三重県から、松山に移って来たとき、多くの鉄砲鍛冶を連れて来ました。 そのとき、元北予中学校の先生で、生物学者として有名な、八木繁一さんの屋敷を工場にして、火縄銃を作ったそうです。 鉄を作るのには、良質の水が必要ですから、清水町をはじめ、きれいな水に恵まれていた、このあたりが、鉄砲作りの場所として、選ばれたのでしょう。 それ以後、鉄砲鍛治が集まるようになり、職人町、鉄砲町が、形成されたわけです。 ですから、今、鉄砲町に住む人の中には、優秀な、職人さんの血をひいた人が、いるかもしれませんね。

この原稿は、8月1日、9時より、東京千代田区東篠会館において開かれた、第28回NHK杯高校放送コンテスト全国大会準々決勝(ABC三つの会場に分かれており、私は、A会場)で読んだものだ。 全国から、地区大会を、勝ち抜いてきた人の集まりなので、会場の雰囲気は、愛媛県大会とは、全く違ったものだった。 でも、県大会で、優勝した私。 名誉にかけても、頑張らなくては…。 そう思い、前日、受け付けの際渡された、課題原稿とともに、マイクに向かった。 準決勝までは、残れるだろうという自信が、少しはあったのか、思ったほど緊張せず、いつもの力が、十分だせたと思う。 準決勝進出者、発表の一瞬。 自信があったはずなのに、マイクの前よりも、ドキドキしており、祈るような気持ちであった。 A会場95名の出場者の中から、20名準決勝進出である。

「エントリー・ナンバー74番」と、自分の番号を聞いたときは、うれしさで、涙が出た。

続く準決勝は、千代田区全電通ホール。 3会場、それぞれ20名ずつ選ばれ、計60名が、準決勝に臨んだ。 愛媛県からは、アナウンス部門、朗読部門あわせて、私一人が、準決勝まで残れた。 今度は、先の原稿を読むばかりでなく、今回のコンテストで入選した、研究発表要旨30篇の中から、1つ選び、100字以内のニュースとして、アナウンスしなければならなかった。 この原稿は、前日書いたもので、引率の、越智先生にも、見ていただいた。 全電通ホールは、東篠会館と同じ位の大きさであった。 ここまでこれたのだから、あとは、自分の力を出すだけだ、と思うと、妙に落ち着いた。 アナウンスするときも、あがらなかった。 でも、さすが、準決勝ともなると違い、ほかの人が、上手に聞こえた。 決勝に残れるだろうか。いや、たぶん無理だろう。 そんな気持ちで、ホテルに帰った。

8月2日は、あこがれのNHKホール。 NHKホールの前には、アナウンス部門、朗読部門、番組制作部門など、決勝進出者名が、掲示されていた。 私の名前はなかった。 「やっぱり…。でも、これが実力だろう。」と、思った。 しかし、NHKホールに入ったときの、あの感激は忘れられない。 また、オーケストラピット迫り、大迫り、小迫り、スライディングステージ、可動プロセニアム(ステージの間口を小さくする)リモコン照明器具など、ホールのしくみは、目をみはるものであった。 入賞(決勝進出10名)はできなかったが、入選(50名)することができ、とてもうれしかった。 県代表として、また、松山北高代表としての責任を果たすことができ、よかったと思う。

この、8月1日、2日の二日間は、私の、高校生活最高の思い出となった。 この経験は、将来、きっと役に立つことと思う。 また、このことを忘れず、自分の道を、歩みたい。

最後に、指導をしてくださった先生方、学校関係者、諸先輩方に厚くお礼申し上げます。 そして、これからの、放送部の発展を、期待いたします。

※原文のまま掲載しています。(部員の名前は、苗字のみに修正しています。)

卒業生(50音順・敬称略)

昭和55年(1980年) 梅木、鎌田、古山、高橋、高田、土屋、広瀬、宮田、山田

昭和56年(1981年) 窪田、中田、山内、吉金、渡辺

昭和57年(1982年) 荻山、越智、武智、同前、西森、野本、宮島、山本

昭和58年(1983年) 西岡、西村、高田、野本、日野、平田、松原、芳野、渡部

当時の主な出来事

昭和55年(1980年) ジョン・レノン死亡

昭和57年(1982年) NHKテレビ音声多重放送開始

昭和58年(1983年) 東京ディズニーランド開園