KRC OB Cue 1992 第9章

第9章 昭和59年~62年卒業生

「放送部はいつも何をしているのか。」とよく尋ねられるのだが、放送部員にとって、あまりにも無情過ぎる一言である。

そこで、その誤解を解くために、今年1年間の主な活動の報告をしたいと思う。

昼の校内放送 月曜から金曜までの昼食時に、放送部制作の番組を放送。 アナウンサーの明るく楽しいおしゃべりあり、音楽ありの15分間である。 また、リクエストボックス(目安箱)を設けて、内容の充実をはかっている。

NHK杯全国高校放送コンテスト 1年間を通して最も大きな行事である。 番組制作課題部門第1位、自由部門第3位。 アナウンス部門2年連続第1位。 朗読部門第4位。 そして、見事に念願の総合優勝を飾る。

体育大会 各グループの装飾テープ、3年生各クラスの仮装テープの制作。 大会までの日数が短いため、厳密なスケジュールのもと、放送部OBや3年生部員の協力により、どうにか当日までに滑り込みセーフ。 その翌日、見るに堪えないほど部屋が乱れていたので、恒例の大掃除を催す。

文化祭 テーマ「聞ける話せるKRC」(決して盗作ではない)のもとに、DJ、ゲーム、のど自慢、フォークコンサートを交じえた約4時間に及ぶ公開生放送。 例年にない、開催日の繰り上げや時間短縮にもかかわらず、大成功!!

以上が1年間の主な活動である。


301 平田さん 306 松原さん

「14番、愛媛県立松山北高等学校松原さん」

静まり返った全電通ホールに、マイクを通して私の声が響く。 他県代表の人と友達になって、励まし合ったり、お互いのことを話したりしたせいだろうか。 ホールいっぱいの人の前でスポットライトを浴びて、緊張するどころか、むしろ快いといった感じだった。

 「小川国夫作『アポロンの島』」これが私が選んだ題材。 指定作品5冊の中から、悩んだ末、選んだものだ。 制限時間は2分。 これを越えると審査対象外になってしまう。 でも、これまでに何度も読みこなし、宙でいえるくらいになっていたので不安はなかった。

「浩は洋服を着けて…」

感謝をこめて、ここは間をおいて…。 練習どうりだった。

翌日、東条会館で準決勝出場者の発表があった。 昨日の準準決勝は3会場に分かれていたが、一会場95名中25名が準決勝に出場できる。 東篠会館までの道は、ずいぶんと遠かった。 玄関口の発表の掲示の前には人だかりがしていた。 準決勝に出場できるなど夢にも思っていなかった私は、「14番」とかかれたその発表の掲示が、信じられない程だった。 しかし、喜んでばかりもいられない。 準決勝には、その日の新聞の第1面か第3面の記事から200字以内で抜き出して、指定作品(私の場合『アポロンの島』)に続けて朗読する、という規定がある。 練習時間はほとんど無いだろうから、うまく読めるかどうか。 また、うまく読める記事があるかどうか心配だった。

8月4日、準決勝当日。 朝早く起き、すばやく新聞に目を通して引率の伊藤先生とも相談し、原稿を書き上げて、会場である東条会館に向かった。 受け付けを済ませて周囲を見ると、ずいぶんと圧倒された気もしたが、それも発声練習を済ませ、自分の原稿に目を通すと、愛媛県では朗読部門で3人残っただけで、私はその3人の中に選ばれたのだから、と、開き直った感じだった。 ステージの上では、指定作品も、課題も、練習の時よりかえってうまくいったように思う。 とにかく私にとってこの数分間が練習を重ねた2年半の集積だった。 悔いは無かった。

8月5日、NHKホールでの決勝出場者発表。 最初からだめだとは思っていたが、選ばれた10名の人がうらやましくもあった。 が、ここまでくることができたのが本当にうれしかった。

今年は、県大会で総合優勝をし、同じく県大会で優勝、入賞したラジオ番組の二作品、また、県大会で、アナウンス部門で1位入賞した平田さんと供に、第29回NHK杯全国高校放送コンテスト全国大会に出場できたことは、私に多くの経験と、喜びを与えてくれた。 県大会の前、先生に特別にお願いして、試験中も発声練習をかかさなかったことや、東京に向かう新幹線が3時間も遅れ、8時間もの間乗っていたことも、今は高校生活を飾る良い思い出だ。

最後になりましたが、御指導、御協力して下さった先生方、激励して下さった方々に感謝し、また、放送部のこれからの活躍を祈りたいと思います。


放送部の1年間の主な活動

昼の校内放送-放送部で番組を制作し、それを月曜~金曜の昼食時に放送する。 美声?を誇るアナウンサーのおしゃべりあり、音楽あり、内容盛りだくさんの15分間である。 リクエストボックスを用いて、生徒のリクエストに応えている。

NHK杯全国高校放送コンテスト-毎年6月に行われる。 放送部員にとって一番大きな行事である。 今年は、ラジオ番組制作課題部門第3位、朗読部門第2位の成績を残す。 そして今年からはビデオを取り入れ、テレビ番組を制作中。

体育大会-各グループの装飾テープ、3年生各クラスの仮装テープの制作。 そして当日の場内放送の担当を受け持つ。 約2週間の間、びっしりつまったスケジュールのもと、3年生部員の協力を得て、当日に間に合う。 そして当日の様子をビデオに録り、それを編集して文化祭のときに放送する。

文化祭-テーマ「SOUND SQUARE in KRC!」カラオケ大会、イントロ当てクイズ、DJ、体育大会のテレビ放送、フォークコンサートなど、約4時間に及ぶ公開番組。 体育大会が終わり、準備期間が1週間(7日間)しかなかったが、当日は、立ち見が出るほど盛り上がり、大成功である。

これが放送部の主な活動である。


303 上原さん

第30回NHK杯高校放送コンテスト全国大会準々決勝は、東京千代田区の東篠会館で始まった。 8月8日、甲子園大会の日と同じくして、私たち放送部員の甲子園大会に、私は幸運にも、県代表として参加することができた。

午後、朗読部門が始まった。 1番…10番…80番、おそいと思っていた順番も、あっという間に86番。 いつのまにか、私は、ライトに照らされた舞台の中央に座っていた。 さあ、私の番だ。

「87番 愛媛県立松山北高等学校上原さん 伊藤左千夫作 野菊の墓 何というても子どもだけに、むちゃなことを言う…。」

すべりだしは、うまくいった。 心なしか足が震えていたが、右手には、しっかりと親友からもらったお守りを握りしめ、あがらないように、間違わないようにという言葉ばかりが、頭の中でめぐりまわっていた。 1分45秒。長かった。 大きな失敗もなく終えた私は、ほっと一息で、やっと緊張から解放された。 朝8時にホテルを出たのに、終わった時は、もう5時が近かった。 長くて短かった東京の一日だった。

翌日は、準決勝進出者発表。 1会場95名中25名、3会場で計75名が出場できる。 口では「もうだめですよ。」などと、先生に言いながらも、心では、あと1回原稿を読みたい。 準決勝へ出られますように、と祈っていた。

掲示板に、A会場87番を見つけたときは、少しの間、何も言えなかった。 もう一度、力を試すことができる。 うれしかった。 今度は、その日の新聞から200字以内抜粋した課題原稿があった。 さっそく、伊藤先生に新聞を捜していただいて、原稿を決めた。 みんなが選ぶだろうと思われるところを避け、他の部分を選んだのだが、今にして思えば、失敗だったかなとも思う。

準決勝は、さすがにあがって、野菊の墓のペースも、少し早くなり、課題原稿にいたっては、2回も間違えるという大失敗。 ため息が漏れた。 翌日を待たずして、決勝進出10名には、完全に入れないことがわかった。 だが、失敗はしたものの、私は満足だった。 ここにきて失敗するのも実力、それよりも、準決勝に残れたこと、いや東京に来られて力を試せたこと、北高代表、県代表として、責任を果たせたことが、とてもうれしかった。

この全国大会出場は、私の生涯忘れもしない最高の経験であり、多くの思い出を残してくれるものになった。 控室で待っているとき他府県の人と話をしたり、東京で電車に乗り違えたり、行きの新幹線に、地震のため、半日近くも乗っていたことなど、今では、すべてが楽しい思い出だ。

放送部に、ひょんなことで入部して、放送のことなど全く知らなかった私だが、全国大会まで行かれたなんて、今でも信じられません。 これもすべて、御指導、御協力して下さった先生方をはじめ、学校関係者、諸先輩、そして、いっしょに部活をしてきた友だち、みなさんのおかげだと思い、深く感謝しております。 ほんとうに、ありがとうございました。 最後に、これからの放送部の活躍を期待しています。


放送部の1年間の主な活動

昼の校内放送-放送部で番組を制作し、それを月曜~金曜の昼食時に放送する。 アナウンスのDJあり、音楽あり、北高生の生の声も入り、内容盛りだくさんの15分間である。 リクエストボックスを用いて、生徒のリクエストに応えている。

NHK杯全国高校放送コンテスト-毎年6月に行われる。 放送部員にとって一番大きな行事である。 ラジオ・テレビ・アナウンス・朗読の各部門に出場した。 現在、次回のコンテストを目指し、努力している。

体育大会-各グループの装飾テープ、3年生各クラスの仮装テープの制作。 そして当日の場内放送の担当を受け持つ。 約2週間の間、びっしりつまったスケジュールのもと、3年生部員の協力を得て、当日に間に合わせる。 放送部は体育大会にかかせない存在になっている。

文化祭-テーマ-「I LOVE MUSIC」 カラオケ大会・DJ・体育大会テレビ放送・フォークコンサートなど、約4時間に及ぶ公開番組。 体育大会が終わり、準備期間が1週間しかなかったが、当日は立ち見が出るほど、盛り上がった。

これが放送部の主な活動である。

<3年生部員> 泉、佐伯、武智、枡見、相田、槌谷


今年度の放送部の主な活動

(1) NHK杯全国高校放送コンテストに参加-このコンテストは、毎年6月に行われる、放送部員にとってもっとも大きな行事である。 今年度は昨年度の反省をもとに努力し、優秀な成績をおさめて、全国大会にも出場した。 <ラジオ番組・自由部門>最優秀「自分の道」 <テレビ番組・課題部門>優良「復活」 <テレビ番組・自由部門>優良「叫び」 <アナウンス部門>優秀 門屋さん 現在、来年度のコンテストを目指し努力している。

(2) 昼の校内放送-放送部でバラエティーに富んだ番組を制作し、それを月曜から金曜の昼食時に放送する。 たった15分間の番組ではあるが、そのために事前にミキサーとアナウンサーとの話し合いを十分に行い、内容の濃いものをと心がけている。

(3) 体育大会-各グループの装飾テープ、3年生各クラスの仮装テープの制作。 そして、当日の場内放送の担当を受け持つ。

(4) 文化祭-テーマ「音楽が好き!」 体育大会、NHK作品ビデオ上映、カラオケ大会、フォークコンサートなど、約4時間にわたって発表した。

<3年生部員> 洲之内、松岡、忽那、沢田、伊藤、相原、牧野、栗林


放送部

こんにちは。みなさんは、毎日どのようにして通学していますか。 もちろん、徒歩、電車、バスの人もいますが、全校生徒のおよそ60%にあたる、908人もの生徒が、自転車で通学していることがわかりました。

ところで、それに対して自転車置き場の面積は、およそ600平方メートルで、テニスコートのたった3倍程です。 このため、毎朝たいへんな混雑となり、あとから来た自転車は、置き場に入りきらず通路に置かれている状態です。 この混雑を少しでもなくすために、今年からは、男子も縦型スタンドにすることが決められました。 また、去年から指導されている通り、ひとり35センチの間に、右から順に置くようにしてください。

自転車で通学しているみなさん、ひとりでもまちがった置き方をすると、あとの人がたいへん困ります。 自分の自転車に責任を持って、決められた場所へきちんと置くようにしましょう。

これは、去る8月6日、今年度のNHK杯全国高校放送コンテストの全国大会で私がアナウンスした原稿です。 月の初めに行われた県大会では、予選を通過しして決勝に残った20人余りの中から、最優秀1名、優秀2名、優良3名がそれぞれ全国大会に出場できることになっていました。 私は2年生でもあり、校内代表として県大会に出場するのは初めての経験でもあったので、予選に通ることが目標であったのですが、何がよかったのか優秀に選ばれて、全国大会に出場することになりました。 2年の間に全国大会のレベルを知っておけるというのは、とても恵まれた機会なので、勉強をしに行くつもりで、東京での大会に臨みました。

7月の終わり、のどをいためて休部せざるを得なくなって1週間以上も練習を怠り、その上、修学旅行も重なり、調子は最高ではありませんでしたが、修学旅行から帰ってすぐ、再び東京へ向かって出発しました。 部員の一人が部長の伊藤先生と共に同行してくれたので、前夜はあまり緊張しませんでした。 翌朝、地下鉄で会場まで行き、受付けなどをすませて9時からのアナウンス部門準々決勝に出場しました。 私の順番は後半だったため、途中外へ出て声を出したり、もう一度原稿を読み直すことができました。 そして、自分の番が近くなり控え席へつきましたが、県大会の時のように北高放送部のみんなが”おちついて、がんばって”と応援席の方で目くばせしてくるでもなく、右や左に座っている全国から来たアナウンサーたちが躍気になって自分の原稿をぶつぶつ読んでいるだけでした。 私はその中でひとり、なまあくびばかりしていました。 県大会で自分がどれくらい精神的に、部のみんなに支えられていたか、ということをその時改めて感じました。 翌日、同じ会場で準決勝進出者25名の発表がありましたが、自分のエントリーナンバーを見つけることはできませんでした。

全国大会へ出場してみて、全国のレベルを知ることができ、たいへんいい経験をしたと思います。 今後、それを生かせるよう他の部員たちと努力していこうと思っています。 もちろん、来年の目標はまず県大会予選通過です。(門屋さん)

※原文のまま掲載しています。(部員の名前は、苗字のみに修正しています。)

卒業生(50音順・敬称略)

昭和59年(1984年) 岩本、上原、大西、中野

昭和60年(1985年) 泉、佐伯、相田、武智、槌谷、枡見

昭和61年(1986年) 相原、伊藤、忽那、栗林、澤田、洲之内、牧野、松岡

昭和62年(1987年) 井上、門屋、嶋崎、高須賀、田所、土居、豊田、冨士田、宮内

当時の主な出来事

昭和59年(1984年) NHK衛星放送開始

昭和61年(1986年) チェルノブイリ原発事故